2008年一学期講義 科目名 学部「哲学講義」大学院「現代哲学講義」    入江幸男

講義題目「アプリオリな知識と共有知」

 


第7回講義 (2008年6月18日)


 

<学生からの批判やコメント>

原田くん:問題は「知る」という行為が何を示しているのか、だと思います。「知る」ということが明らかにされないまま、”I can report that ..”that以下の中にも、「Aが知っていることをBも知っている」などという形で出てきたとしたら、その事態によって何が記述されているのか理解することはできないだろう。

(入江のコメント:その通りです。いずれこの問題に答えたいとおもいます。)

 

中村さん:気づいていなかった行為を指摘されて、観察に基づいて知る、とありますが、指摘された時点で知るのであって、その後に「観察」を必要とするのでしょうか。

(入江のコメント:指摘を受けて、観察して、その指摘の正しいことを知るのではないでしょうか。もちろん、指摘が間違っていると判断することもあるだろうと思います。)

 

織田くん:「私達は野球をしている」と言うが、これを個人のレベルで考えれば、「私はピッチャーをしている」「私はファーストを守っている」というように個人はバラバラの行為をしていると考えられる。「私」たちのバラバラな行為を「私達」の統一された行為にするためには、「私達」に含まれた全員に共通する意図や目的、連帯が必要であると思う。

(入江のコメント:その通りです。今日の講義で答えたいと思います。)

 

元生君くん:「哲学の演習中なのに、ある人は別のゼミの予習をしている」という場合とか、「寝ている人もいる」場合には、「私達は哲学の議論をしている」といえるのでしょうか。「私達は・・・している」という場合の語り手(集合の代表?)の集合内での立場や集合への思い入れの強さなどによっても随分と「集合的行為」の様相がかわってくるのかもしれないですね。

(入江のコメント:たしかに、実際にはバラバラでも、建前の上から、「私達は・・・している」と言える場合があるかもしれないですね。もっというと、「私達は・・・すべきだ」と言える場合もあるかもしれません。もちろん、これは実践的知識とは別のものですが、しかしこれもまた共有知になりうるように思います。)

 

杉之原くん:私達の実践的知識はないように思います。なぜなら、集合的行為というものは、各メンバー同士で互いの行為を確認しながら行為しなければ成り立たないからです。

(入江のコメント:野球の場合やチェスの場合など、またその他の多くの場合でも、各メンバー同士で互いの行為を確認しながら行為しなければならないことでしょう。しかし、そのことは、「私達は野球をしています」という知識が、私達の実践的知識でないという理由にはならないとおもいます。今日の講義で答えたいと思います。)

 

世古口くん:私達の集団的行為があったとしても、それが個人の知ではないといえるのはなぜでしょうか?もしそれが、その行為の動機を個人には説明できないからだとしたら、そんなことはないと思います。

(入江のコメント:そのとおりです。私達の実践的知識が、個人の知ではないと考えるのは、そういう理由ではありません。)

 

西田くん:私達の実践的知識となりうるものは、ひとりでも出来る行為ではなくて、みなでやらなければ成立しないような行為である。

(入江のコメント:そのとおりです。「みなでやらなければ成立しない行為」の定義に、「私達の実践的知識」の概念が必要かもしれません。)

 

野村さん:催眠術の例への反論

(入江のコメント:確かにもう少し考えてみる必要がありそうです。)

 

 

§6 「私達」の実践的知識の分析

 

1、「我々の行為」の実践的知識はあるか

アンスコムが指摘したように、「何をしているの」と問われたならば、我々は即座に答えることが出来る。そのような行為の中には、さらに「なぜそうするのか」と問われて、即座に答えられる行為がある。この後者の行為は、通常「意図的行為」と呼ばれているものである。アンスコムは、意図的行為を、「意図」という曖昧な概念を用いずに、定義する方法として、上のような基準を考えたのである。ところで、「何をしているの」と問われて、例えば即座に「私はコーヒーを淹れています」と答えるときのこの答えを、アンスコムは「実践的知識」と呼ぶ。彼女によれば、これらの知識は観察によらない知識である。そして、付け加えるならば、推論にもよらない知識である。アンスコムが論じているのは、一人の個人の行為であり、個人の意図的行為についての彼の知識である。

 この議論を、複数の人間による集団的な行為に適用するとどうなるだろうか。私がほかの人と一緒にいるときに、第三者がやってきて「君たちは何をしているの」と私に問うたとき、私あるいは我々はどのように答えるだろうか。

(1)お昼休みの教室で、弁当を食べている学生や予習をして射る学生や、読書をしている学生がいたとしよう。そこに教師がやってきて「君たちは何をしているの」ととうたときに、そこにいる学生は、「僕たちは・・・しています」というように答えることは難しいだろう。

(2)もし、教師が自習をするように言って出ていった後の教室に、別の教師が来て、「君たちは何をしているの」と尋ねたならば、「僕たちは自習をしています」と即座に答えるだろう。

(3)我々がサッカーをしているところに、誰かがやってきて「君たちは何をしているの」と問われたときに、「我々はサッカーをしています」のように、我々の内の誰であれ、即座に答えるだろう。

 

(1)の場合には、そこにいる学生は互いに知らない人たちであり、誰かが、そこにいる人たちを代表して答えることが出来ない。仮に答えるとしても、そのときには、そこにいる学生達を観察して、「僕たちは予習していますが、他の人たちは、いろいろです」のように答えることになるだろう。

(2)の場合には、一人一人が自習しており、我々が集団で何か一つの行為をしているのではない。もし同じ状況で「君は何をしているの」と問われたら、「私は自習しています」と答えるであろう。そしてこれは観察によらない実践的知識であるだろう。この「私は自習しています」が実践的知識ならば、「僕たちは自習をしています」も同じように観察によらない実践的知識であると思われる。この答えをするときに観察する必要はない。仮に観察して、自習していないで、寝ている人がいるとしても、「僕たちは自習しています」という答えは、間違いではない。なぜなら、寝ている人も、自習すべき時間であることはわかっており、目が覚めたとしても、その返答に同意することを予期できるからである。

 

(3)の場合のサッカーをすることは、集団によってのみ可能な行為である。もちろんこの場合も「君は何をしているのか」と問われたならば「私はサッカーしています」と答えることができる。そしてこれは実践的知識である。ここで「我々はサッカーをしています」と答えるときの知識もまた実践的知識であるといえるだろう。

 

2、「私達」の実践的知識の定義の復習

「私達」の実践的知識の定義を少し修正して、復習したい。それは、つぎのような性質を持っていなければならない。

@「私達」が主語となっている。

A「私達は・・・をしている」という現在形の、私達による行為に関する言明である。

Bこの知識は、私達による集団的行為の記述ではなくて、集団的行為が成立するための必要条件である、つまり集団的行為の構成要件である。

Cこの知識は観察にも推論にもよらない知識である。

Dこの知識は、正誤の可能性を持つ。しかし、これの知識が間違いであるとわかったときには、私達は知識を訂正するのではなくて、行為を訂正する。

 

3、「私達」の実践的知識は、共有知である

「君たちは何をしているのか」と問われて、「私達はサッカーをしています」と答えたとしよう。 この返答は、私達の意図的な行為についての私達の実践的知識である。ここでの意図の主体は「私達」である。ここには集団的な意図がある。この意図的な行為の知識の主体もまた私達である。これは集団的な知識、共有知である。

この主張に対しては、次の反論が考えられる。「私達はサッカーをしています」という返答を発話しているのは、一人の個人である。つまり、ここでは<私達>が答えているのではなくて、一人の人間が、<私達>が行っていることを記述しているのである。この反論に対しては、次のように答えよう。

 

3、「私達」の主観としての用法

もし「私達はサッカーをしています」が実践的知識であるとするならば、これは<私達>についての記述ではない。もし「私はチェスをしています」という答は記述でなくて、「私達がチェスをしています」という答えは記述であるとすれば、両者の間には非常に大きな質的な区別があることになるが、そのような大きな差異があるようには思えないのである。これを証明するための手がかりとして、ウィトゲンシュタインによる、「私」の「客観としての用法」と「主観としての用法」の区別を想起してほしい。

 

(1)「私」の「客観としての用法」と「主観としての用法」の区別

 

「「私」という語の用法には、二つの違ったものがあり、「客観としての用法」「主観としての用法」、とでも呼べるものがある。第一の種類の用法の例としては、「私の腕は折れている」「私は6インチ伸びた」「私は額にこぶがある」「風が私の髪を吹き散らす」など。第二の種類の例は、「私はこれこれを見る」「私はこれこれを聞く」「私は私の腕を上げようとする」「雨が来ると私は思う」「私は歯が痛い」など。次のように言うことで、この二つのカテゴリーの間の相違を示すこともできる。第一のカテゴリーの場合は、特定の人間の認知が入っており、したがって誤りの可能性がある、というよりむしろ、誤りの可能性が用意されていると私は言いたい。[……]それに対して、私が歯が痛いというときには人間の認知は問題にならない。「痛みを感じているのは、君だってことは確かか」と尋ねることはばかげている。なぜなら、誤りが不可能なこの場合、誤り、つまり「悪い差し手」とあるいは考えられるかもしれない差し手は実は、もともとこのゲームの差し手などではないからだ。」(ウィトゲンシュタイン『青色本』)

 

客観としての用法とは、話し手が観察によって自己について客観的に記述する場合であるのに対して、主観としての用法は、話し手について記述しているのではない。

 

■「主観としての用法」と実践的知識

この用法の例の中には、アンスコムのいう実践的知識に当たるものは含まれていない。しかし、私達は実践的知識もまた主観としての用法に含まれると言えるだろう。「痛みを感じているのは、君だってことは確かか」と尋ねることが馬鹿げているのと同様に、「コーヒーを淹れているのが君だってことは確かか」と尋ねることは馬鹿げており、ここでも人間の認知は問題にならないからである。

 

■「主観としての用法」と発語内行為の区別

サールは発話を、主張型発話、行為指示型発話、行為拘束型発話、表現型発話、宣言型発話に区別する。主張型の発話には、真理値がないので、間違うと言うこともない。主張が間違うことはあるが、命令や約束が間違うことはない。サールがいうように、これらの発話は、「自己保証的性格」(self-guaranteering character)をもつ。(参照、20041学期講義、第二回、第三回ノート)

 ここでの「主観的用法」が、間違うことがなく常に真であるもの、ならば、それは遂行型発話とは異なる。しかし、訂正されることがないという点では、同じである。

 

 

(2)「私達」の「主観としての用法」と「客観としての用法」

さて、私達は、ウィトゲンシュタインが「私」の用法を二つに分けたのと同様に、「私達」の用法を二つに分けられるだろう。客観としての用法は、例えば、「私達は、新しいユニフォームを着ている」「私達は、強いチームである」がそれである。ここでは、人間達ないし集団の同定が行われている。これらの発言には、誤りの可能性があるといえる。主観としての用法の例としては、「私達はサッカーをしている」「私達は構内放送を聞いている」「雨が来ると私達は思う」「私達は、困っている」などを、上げることができるだろう。この場合、例えば「サッカーをしているのが君たちだというのは確かか」と尋ねることは馬鹿げているように思われる。つまり、集団の同定は問題にならないように思われる。なぜなら、集団を指示してそれについて記述しているのではなくて、この発話によって「私達」が作られていると考えられるからである。つまり、「私達はサッカーをしている」が主観としての用法だとすると、それは話し手による「私達」についての記述ではないのである。

「私達はチェスをしています」という知が、「私達の実践的知識」であり、話し手による「私達」についての記述ではないとすると、この知は個人の知ではなく、「私達」の共有知である。(「私達」の主観としての用法の他の事例も、私達の共有知であると言えそうであるが、その検討は別の機会にしたい。)

 

(3)「subjectとしての用法」が、“subject”を作る

aさんとbさんが、「君たちは何をしているの」と問われて、aさんが「私達はチェスをしています」と答えるとき、この返答が実践的知識であるとしよう。ここでaとbが「私達はチェスをしています」という一つの知を分け持っているのだとすると、aは、「私達」を代表してこの問いに答えているのだと考えられる。「私達」は代表されることによって成立するのだと考えられる。このように考えるとき、実は「私」を主語とする実践的知識でも、発話者が、ある人物「私」を代表していると考えることが出来る。この人物はあらかじめ存在していて指示されるのではなくて、代表されるべき「私」は、代表されることによって、成立するのである。つまり、「私」の成立の仕方と「私達」の成立の仕方は同じである。

 

 

4、「私」の実践的知識の背景知識について

ところで、他の知と同様に、実践的知識もまた、他の多くの知識とともに作る網目(web)のなかで成立している。私達が実践的知識に注目するときには、網目を作るその他の知識を「実践的知識の背景知」と呼ぶことが出来るだろう。「私はコーヒーを淹れています」は、「これはコーヒーの粉である」「ここにお湯がある」「私はコーヒーを淹れることが出来る」「私は存在する」などの背景知を伴っている。このとき、「それは何ですか」と問われたならば、私は観察によらずに、「これはコーヒーの粉です」とか、「これはお湯です」などと答えることができるだろう。

 

5、「私達」の実践的知識の背景知識について

 これと同様に「私達の実践的知識」もまた、背景知をもつだろう。「僕達はサッカーをしています」は、「あれがゴールポストである」「これがサッカーボールである」「ここは運動場である」「私達は存在する」などの背景知を伴う。そして「私達の実践的知識」が共有知であるとすれば、これらの背景知もまた共有知である。

例えば今仮に、「君たちは何をしているのか」と問われて「僕達は野球をしています」と答え、「君は何をしているのか」と問われて、「ぼくはレフトを守っています」と答え、「彼は何をしているのか」と問われて、「彼はセンターを守っています」と答えるとしよう。ここで、「僕達は野球をしています」は「僕達」の実践的知識であり、「僕はレフトを守っています」は「僕」の実践的知識である。この二つが、実践的知識であり、観察によらない知識であるとき、「彼はセンターを守っています」もまた観察によらない知識であるだろう。それだけでなく、「僕達が野球をしている」が「僕達」の実践的知識であるのならば、「僕がレフトを守っており、彼がセンターを守っている」もまた、「僕達」の実践的知識である。つまり、「僕はレフトを守っています」「彼はセンターを守っています」は「僕達」の実践的知識である。ここに共有知の拡張の可能性がある。

 もう一つの例を挙げよう。例えば、工場の生産ラインで携帯電話を組み立てているとしよう。xさんは、ケースに回路を組みこみ、yさんは電池を取り付け、zさんは、ケースにふたをして完成させている、としよう。このとき、「君たちは何をしているの」と見学者に聞かれたならば、「xさんは、携帯電話を組み立てているのです」と答えるだろう。「君は何をしているの」と聞かれたならば、「ケースに回路を組み込んで射ます」と答えるだろう。xさんが、「yさんは、何をしているの」と問われたならば、「彼は、電池を取り付けています」と答えるだろう。そのとき、xさんは、yさんの手元を見なくてもそう答えるだろう。だからxさんはyさんが電池を取り付けていることを観察によって知っているのではない。xさんは、yさんが電池を取り付けていることを知っているのである。

 私達の実践的知識の背景知には、次のような知が含まれている。

@自分の存在や行為についての知、

A他者の存在や行為についての知、

B対象についての知

C場所についての知、